景観以前?の問題

 

空間計画科学 講師 平野 勝也


景観という専門柄,人材不足で私のような若輩者でも,実際の計画・設計のアドバイスをして
欲しいと,お声がかかる.そもそも,設計とは「複数の要請を一つのかたちに纏めること」の
筈である.決して作業ではない.しかし,実務で出会う設計は,標準設計の単なるスパン変更,
道路構造令さえ満たせば,縦断排水も土工バランスもおかまいなしの傍若無人な線形設計が蔓
延していて,設計は作業であると言いたげなものばかり.法面も機械的に安定勾配を立ち上げ
ただけの作業が溢れかえっている.その結果,沢を塞ぐダムのような盛土や,ミニモヒカン山
や,複雑怪奇な立体形状の土工が,あちこちで作られてしまっている.気がつくと景観アドバ
イザーと言いながら,あまり景観の話をせずコストを下げる話すらしている自分に気付く.

なぜこんな事になってしまったのか?皮相的な理由は簡単である.どんなに工夫した図面でも,
そうでなくても同じ単価.実際に設計をするコンサルタントは,工夫をすればするほど損をし
てしまうのである.しかしながら,本質的な理由はもう少し別の所にあると私は思っている.
高度成長期に,土木技術者は緊急に大量の土木構造物を供給しなければならなかった.多少,
金銭的ロスがあろうが,緊急避難的に,一品生産から規格大量生産へと移行せざるを得なかっ
た.標準設計の誕生である.以降土木技術者に必要な能力は,設計ではなく,現地に標準設計
を適用するという作業能力になってしまった.一方,大学においては,自然科学信奉からか,
自然科学的な見知に立つ研究が次々と花開き,より深化していった.自然科学は捨象により成
立する.全体を考え実在のものを作り上げる設計とは,本質的に思考の方向が異なる.エンジ
ニアリングは,深化と共に見えにくくなったといって過言ではあるまい.時は高度成長期,実
務者は標準設計の適用が中心であったため,需給に一致があった.

しかし,高度成長が終わり,緊急避難措置をとる必要が無くなった今,景観に名を借りて,腰
の重い役所でさえも高度成長以前に戻ろうとしているにもかかわらず,大学教育は専門分化の
道を走り続けているように思えてならない.気がつくと設計指導できる教官も数えるほどにな
り,サイエンティスト的な教官が跋扈し,多くの大学で,統合的にものを捉えるエンジニアリ
ングのトレーニングなしに,単に個別の専門分野を個別に教えているように思えてならない.
「設計など学問ではない」,「設計という主観に依存するものは大学で教えるべきではない」
といった「理由」を多く聞く.では大学では「良い研究」という主観に依存するものをどう教
育しているというのか?

個別の専門の計算はコンピュータ化が進んでいる.計算という意味では,結局出来合いのソフ
トを使えば「誰でも」出来るのである.個別科目の本質を理解した上で,専門分化の枠を越え,
人間にしかできない設計という創造的,統合的行為を行うというエンジニアリングの本旨を,
全国の大学が見つめ直す時期に来ている.いや,他人事ではない.「改革したいと思っている.」
高度成長以前,土木設計は「用・強・美」の三位一体であったはずだ.決して,豊かになってゆ
とりが出来て景観が語られるようになったわけではない.
 

田辺朔郎は工部大学校の卒業論文で琵琶湖疎水の計画を出し,卒業後にすぐに疎水の設計に取り
かかっている.土谷実も北海道帝国大学卒業後2年強で稚内北防波堤ドームの設計を成し遂げて
いるのである.